D&O保険と改正会社法|取締役会決議と情報開示義務のポイント
役員等賠償責任保険(D&O保険)の契約や更新を検討する際、令和元年改正会社法で定められた新たな手続きを正しく理解しておくことが不可欠です。法改正により、契約締結には取締役会決議が必須となり、情報開示義務も課されるなど、実務上の対応が大きく変わりました。これらの法定手続きを怠ると、契約の有効性が問われたり、保険料が役員給与とみなされ課税されるリスクが生じる可能性があります。この記事では、改正会社法がD&O保険に与えた影響、特に契約締結に必要な手続き、事業報告における情報開示義務、税務上の扱いについて、実務上のポイントを解説します。
D&O保険と会社法改正の背景
そもそもD&O保険とは何か
D&O保険(Directors and Officers Liability Insurance)とは、取締役や監査役といった役員が、その職務の執行に起因して損害賠償請求をされた場合に生じる経済的損害を補填する保険です。役員は会社や第三者に対して重い責任を負っており、経営判断の誤りや監督義務違反によって巨額の損害賠償を求められるリスクがあります。D&O保険は、役員が訴訟リスクを過度に恐れて経営が萎縮することを防ぎ、企業が適切なリスクテイクを伴う意思決定を下すための重要な基盤となります。
この保険が補填する損害には、主に以下のものが含まれます。
- 株主代表訴訟や第三者訴訟によって役員個人が支払いを命じられた損害賠償金や和解金
- 訴訟に対応するために必要となる弁護士費用や調査費用などの争訟費用(防御費用)
近年、企業の不祥事(粉飾決算や製品データの偽装等)が発生した際、直接関与していなくても監督義務違反を問われ、役員が提訴されるケースが増えています。このような場合、役員個人が巨額の賠償責任を負うことは極めて困難です。D&O保険はこうした役員個人の経済的負担を軽減し、優秀な人材が役員に就任しやすくする役割も担っています。
上場企業だけでなく、非公開の中小企業においても、創業者一族内での経営権争いを背景に代表取締役の責任が追及されるなど、D&O保険の必要性は高まっています。法務部門が整備されていない企業ほど、無自覚に法令違反を犯すリスクがあり、その防衛策としての重要性は会社の規模を問いません。したがって、D&O保険は役員個人を守るだけでなく、コーポレートガバナンスを強化し、企業価値の向上を支える経営インフラとして機能します。
なぜ会社法で規定が新設されたか
令和元年改正会社法でD&O保険に関する規定が新設された主な理由は、保険契約の手続きを明確化し、利益相反の懸念を払拭するためです。
法改正以前、D&O保険は特に上場企業で広く普及していましたが、会社法に直接的な規定は存在しませんでした。この保険は、会社が保険料を負担して役員個人の損害を補填するという性質上、会社から役員への利益供与にあたり、会社法上の利益相反取引に該当するのではないかという法的な疑義が生じる可能性がありました。実務上は経済産業省が公表した解釈指針などを参考に運用されていましたが、法的な安定性に課題が残っていました。
特に問題とされたのが、役員が会社に対して負う任務懈怠責任を補填する「株主代表訴訟担保特約」です。この特約部分の保険料を会社が負担することは、会社に損害を与えた役員を会社自身の費用で守ることになり、役員の規律を緩ませるモラルハザードを引き起こす危険性が懸念されていました。このため、改正前は当該部分の保険料を役員個人が負担する運用が一般的でしたが、それでは役員への適切なインセンティブ付与という保険本来の目的が損なわれていました。
そこで改正会社法は、D&O保険契約の締結に際して取締役会や株主総会での決議を義務付けるなど、手続きの透明性を確保するための厳格なルールを設けました。これにより、モラルハザードを防ぎつつ、会社が適法に保険料を全額負担できる道筋を明確にしました。その結果、企業は法的な不確実性を気にすることなく、D&O保険を経営戦略の一環として積極的に活用できるようになったのです。
保険契約締結の新たな手続き
取締役会決議の要件
取締役会設置会社がD&O保険契約を締結または更新する場合、必ず取締役会の決議によって契約内容を決定しなければなりません(会社法430条の3第1項)。
D&O保険は、会社が保険料を負担し、役員個人の賠償責任が補填されるという構造から、会社と役員の間に利益相反の性質を持ちます。一部の経営陣の独断で会社に不利益な契約が結ばれたり、役員の規律が緩んだりすることを防ぐため、会社の業務執行の意思決定機関である取締役会による慎重な審議と承認が法的に求められています。
取締役会で決議すべき事項には、保険契約の根幹をなす基本的な情報が含まれます。
- 保険会社名
- 被保険者の範囲(例:「当社の取締役及び監査役」)
- 保険料
- 保険期間
- 補填の対象となる損害の範囲と支払限度額
- 保険金が支払われない主なケース(免責事由)
実務上、毎年同じ条件で契約を更新する場合や、自動更新条項がある場合でも、原則としてその都度、改めて取締役会決議が必要です。更新時に契約内容が現状に即して妥当であるかを再評価することが求められるためです。また、親会社が子会社の役員も含むグループD&O保険を締結する場合、契約者である親会社の取締役会決議は必須ですが、子会社側の決議は原則不要とされています。ただし、子会社が保険料を実質的に負担している場合は、子会社でも決議を行っておくことが紛争予防の観点から安全です。
取締役会非設置会社の手続き
取締役会を設置していない株式会社においては、D&O保険契約の内容を決定するためには、株主総会の決議が必要となります(会社法430条の3第1項)。
取締役会非設置会社では、会社の重要な業務執行に関する意思決定権限は、原則として株主総会にあります。D&O保険契約は会社の財産を支出し、役員個人の責任を補填するものであるため、会社の所有者である株主自身がその妥当性を直接判断し、承認を与える必要があるのです。
取締役会非設置会社の多くは、株主と経営者が近しい中小企業や同族会社ですが、たとえそうであっても株主総会という法定の手続きを省略することはできません。招集通知の発送から決議、議事録の作成まで、会社法に準拠した手続きを正確に行う必要があります。もしこの決議を怠ると、保険契約の有効性が争われたり、代表取締役の任務懈怠責任が問われたりするなどの重大なリスクが生じる可能性があります。将来、親族間で経営権争いが発生した際などに、手続きの不備が厳しく追及される可能性も否定できません。
したがって、会社の規模にかかわらず、取締役会非設置会社では株主総会決議という法定手続きを確実に実施し、その記録を法的に有効な形で保存しておくことが極めて重要です。
利益相反取引規制との関係
D&O保険契約の締結については、会社法上の利益相反取引規制の適用が除外されています(会社法430条の3第2項)。
D&O保険は本質的に利益相反の性質を含みますが、改正会社法では、その締結のために取締役会決議または株主総会決議という専用の手続きを設けました。これに加えて従来の利益相反取引規制を二重に適用することは、実務に過度な負担を強いるため、専用手続きを経ることを条件に適用除外とされたのです。
通常、利益相反取引が行われ会社に損害が生じた場合、関与した取締役は任務を怠ったものと推定されます。しかし、D&O保険契約については、法定の決議さえ経ていれば、この任務懈怠の推定規定は働きません。さらに、民法が定める自己契約・双方代理の禁止規定も適用されないことが明記されました(同条第3項)。これにより、代表取締役が自らを被保険者に含む保険契約を会社を代表して締結しても、無権代理行為として無効になるリスクがなくなりました。
このように、利益相反取引規制の適用除外は、専用のガバナンス手続きを経ることを前提として、企業が過剰な法的リスクを懸念することなくD&O保険を円滑に導入できるようにするための重要な措置です。
根拠条文(会社法430条の3)の要点
会社法第430条の3は、D&O保険について、その定義、締結に必要な手続き、および関連規定の適用除外を定めた根拠条文です。この条文は、役員への適切なインセンティブ付与と、利益相反から生じるモラルハザードの防止という二つの要請を調整し、企業がD&O保険を適法に活用するための基盤となっています。
条文の要点は以下の通りです。
- 定義: 会社が保険契約者となり、役員等を被保険者として、役員等が職務執行に関して負う責任による損害を保険者が補填する契約を「役員等賠償責任保険契約」と定義しています。
- 手続き: 契約内容の決定には、取締役会設置会社では取締役会決議、非設置会社では株主総会決議を要件としています。
- 対象となる役員等: 取締役、会計参与、監査役、執行役、会計監査人が含まれます(会社法上の役員ではない「執行役員」は含まれません)。
- 適用対象外: 役員個人が自ら保険料を支払って加入する保険は、この条文の規制対象外です。
- 規制の除外: 役員の職務執行の適正性を著しく損なうおそれがないものとして法務省令で定める保険(製造物責任保険など)は、取締役会決議等の規制から除外されています。
- 他の法律との関係: 適法な手続きを経れば、利益相反取引規制および民法の自己契約・双方代理の禁止規定は適用されません。
取締役会決議における特別利害関係取締役の扱い
D&O保険契約の内容を決定する取締役会決議において、被保険者となる取締役は「特別利害関係取締役」に該当し、その決議に加わることはできません(会社法369条2項)。
これは、決議事項について個人的な利害を持つ取締役が議決に加わることで、会社の利益よりも個人の利益が優先され、決議の公正さが損なわれるのを防ぐための規定です。D&O保険は役員全員が被保険者となることが多いため、そのままでは決議に参加できる取締役がいなくなってしまいます。
実務では、この問題を回避するために、各取締役を被保険者とすることを個別の議案として分割し、順次決議していく方法が実務上採られます。例えば、A取締役に関する議案を審議する際はA取締役を退席させて残りの取締役で決議し、次にB取締役の議案を審議する際はB取締役を退席させて決議する、という手順を繰り返します。
特別利害関係取締役の扱いを誤ると、取締役会決議そのものが無効となるリスクがあるため、議事運営には細心の注意が必要です。
事業報告における情報開示義務
事業報告で開示すべき具体的な内容
事業年度の末日時点で公開会社である株式会社は、その事業報告にD&O保険契約に関する一定の事項を開示する義務があります(会社法施行規則121条の2)。
これは、D&O保険の内容によっては役員のモラルハザードを招き、株主の利益を損なう可能性があるためです。会社の所有者である株主に対し、どのような保険契約が結ばれているかを透明性をもって情報提供することが求められます。
事業報告に記載すべき主な事項は、以下の通りです。
- 被保険者の範囲: 「当社の取締役及び監査役」のように、対象者の範囲が特定できる記載で足ります。個別の氏名を列挙する必要はありません。
- 保険契約の内容の概要: どのような場合に保険金が支払われるか(補填対象)の概要や、被保険者が保険料の一部を負担している場合はその旨などを記載します。
- 職務執行の適正性を損なわないための措置: 意図的な法令違反や犯罪行為による損害は補償の対象外とするなど、モラルハザードを防止するために講じられている措置の内容を具体的に記載します。
なお、支払われる保険金の上限額や、会社が支払う具体的な保険料の額については、開示義務の対象とはされていません。この開示は、企業が健全なガバナンス体制を維持していることを株主に対して示すための重要な手段となります。
開示義務の対象となる保険契約
事業報告における開示義務の対象となるのは、当該事業年度の初日から末日までの間に効力を有していたすべてのD&O保険契約です。
事業報告は、その事業年度における会社の状況を網羅的に報告するための書類であるため、年度の途中で満了した契約や、新たに締結された契約もすべて開示対象となります。例えば、事業年度が4月1日から翌年3月31日までで、保険契約の更新が10月1日である場合、更新前の旧契約と更新後の新契約の両方について開示が必要です。契約内容に変更があった場合は、その変更点も明確に記載しなければなりません。
また、親会社が子会社の役員を含めてグループD&O保険を締結している場合、開示義務を負うのは契約者である親会社のみです。子会社が公開会社であっても、親会社が契約者であるグループD&O保険については、子会社の事業報告で記載する必要はないと解されています。
開示漏れは事業報告の虚偽記載とみなされる可能性があるため、担当者は年度内に有効であったすべての保険契約を正確に把握し、適切に開示することが求められます。
「職務執行の適正性を損なわない措置」の開示ポイント
この開示項目は、D&O保険によって役員の規律が緩むこと(モラルハザード)を防ぐための具体的な仕組みが契約に盛り込まれていることを株主に示すのが目的です。
実務上、多くの企業は保険契約の約款に定められている免責事由を記載することで対応しています。これにより、保険による保護が万能ではなく、一定の制約の下にあることを明確にします。
記載する内容の典型例は、「保険契約では、被保険者の犯罪行為や、法令に違反することを認識して行った行為によって生じた損害は、保険金の支払いの対象外とされています」といった記述です。このように、役員の悪意や重過失に基づく行為は補償されないことを示すことで、保険が悪用される懸念がないことを株主に説明し、ガバナンスの健全性をアピールすることができます。
保険料の会社負担と税務上の扱い
会社負担保険料の損金算入の可否
会社法が定める取締役会決議などの正規の手続きを経て締結されたD&O保険の保険料は、会社が全額を負担した場合であっても、法人税法上、原則として全額を損金に算入することが可能です。
これは、改正会社法によって保険料の会社負担が適法な行為として明確に位置づけられ、それに伴い国税庁も「法人の業務の遂行上必要なもの」として、損金性を認める見解を示したためです。改正前は、株主代表訴訟リスクを補填する部分の保険料を会社が負担すると、役員への利益供与とみなされる懸念がありましたが、この問題は解消されました。
企業は、会社法上の手続きを適正に履践していれば、税務上の否認リスクを心配することなく、D&O保険の保険料を会社の経費として処理できます。これにより、企業は優秀な人材を確保し、適切なリスクテイクを促進するための費用として、D&O保険をより活用しやすくなりました。
役員給与と見なされる場合
会社法が定める取締役会決議や株主総会決議といった適切な手続きを経ずに、会社がD&O保険の保険料を負担した場合、その保険料は役員個人に対する給与(経済的利益の供与)と見なされ、課税対象となる可能性があります。
法定の手続きを欠いた保険料の負担は、会社の業務上必要な経費とは認められず、会社が役員個人のために費用を肩代わりしたと判断されるためです。この場合、会社と役員個人の双方に税務上の不利益が生じる可能性があります。
| 対象者 | 影響の内容 |
|---|---|
| 会社側 | 負担した保険料が役員給与として扱われ、定期同額給与等の要件を満たさない限り、法人税法上の損金不算入となる。 |
| 役員個人側 | 会社が負担した保険料相当額が給与所得とみなされ、所得税・住民税の課税対象となり、追徴課税を受ける可能性がある。 |
特に、新規契約時だけでなく、毎年の更新時にうっかり取締役会決議を忘れてしまうといった形式的なミスが、重大な税務ペナルティにつながる恐れがあります。D&O保険を適切に運用するためには、会社法上の手続きを確実に実施し、その証拠となる議事録を適切に保管しておくことが不可欠です。
まとめ:D&O保険を改正会社法に則り適正に運用するために
本記事では、令和元年改正会社法によってD&O保険(役員等賠償責任保険)に導入された新たな規律について解説しました。法改正の核心は、契約締結に際して取締役会または株主総会の決議を必須とし、公開会社には事業報告での情報開示を義務付けた点にあります。これらの手続きは、利益相反の懸念を払拭し、役員のモラルハザードを防ぎながら、会社が適法に保険料を負担するための重要なガバナンスプロセスです。D&O保険を新規に契約または更新する際は、自社が取締役会設置会社か否かを確認し、法定の決議手続きと開示義務を確実に履行することが不可欠です。手続きの不備は、契約の有効性だけでなく、税務上の不利益にも直結する可能性があるため注意が必要です。具体的な議事運営や開示内容に不明点があれば、弁護士などの専門家に相談し、法的に万全な体制で運用することをお勧めします。

