従業員からの不当な残業代請求への対応|会社側の反論と証拠収集の方法
従業員から提出された残業代請求の内容に疑念を抱き、その対応に苦慮されている経営者や労務担当者の方も少なくないでしょう。カラ残業や水増し請求といった不当な要求に対し、感情的に対応したり、安易に支払いに応じたりすることは、さらなるトラブルを招くリスクがあります。企業としては、客観的な事実に基づいて法的に正しく、かつ毅然とした態度で臨むことが求められます。この記事では、不当な残業代請求の主な類型から、企業が取るべき具体的な調査方法、法的な反論のポイント、そして将来の紛争を予防するための体制構築までを体系的に解説します。
不当な残業代請求とは?主な類型と具体例
虚偽の残業時間を申告する「カラ残業」
カラ残業とは、実際には業務に従事していないにもかかわらず、残業したと見せかけて不正に残業代を請求する行為です。これは会社に対する詐欺行為にあたる可能性があり、刑法上の詐欺罪に問われるリスクもある重大な不正行為です。 会社にとっては、不必要な人件費が発生するだけでなく、他の真面目な従業員の労働意欲を削ぐ要因ともなります。
- 退勤後に会社へ戻り、タイムカードを打刻して帰宅する。
- 同僚に依頼して、代理で退勤時刻を打刻してもらう。
- テレワーク中に業務を行っているように装い、実際は私的な用事を済ませている。
- 遅刻や早退の事実を隠し、正規の時間どおり勤務したかのように申告する。
業務外の活動時間を申告する「居残り残業」
居残り残業とは、業務上の必要性がないにもかかわらず、生活費稼ぎなどの私的な目的で意図的に会社に滞在し、残業代を請求する行為を指します。会社の明示的な残業命令がない限り、原則として労働時間とは認められません。 しかし、上司がその状況を認識しながら放置していた場合、「黙示の残業命令」があったと見なされ、残業代の支払い義務が生じるリスクがあるため注意が必要です。
- 業務終了後、必要なく職場に残り、私的なインターネット閲覧や同僚との雑談に時間を費やす。
- 自身の業務は完了しているが、他の従業員が残っているため、特に業務をせず一緒に残っている。
- 会社からの指示なく、自己判断で不要不急の資料作成などを行う。
持ち帰り残業など労働時間を過大に申告する「水増し請求」
水増し請求とは、実際の労働時間よりも長く申告することで、過大な残業代を得ようとする行為です。持ち帰り残業は、本来は会社の許可がなければ労働時間と認められませんが、上司が黙認していたり、業務量からみて持ち帰らざるを得ない状況だったりした場合は、労働時間と認定される可能性があります。
- 自宅での作業時間について、実際に要した時間より大幅に長い時間を申告する。
- 手書きの日報や出勤簿に、実際の業務終了時刻より遅い時間を記入する。
- 業務時間中にあった長時間の私用離席などを申告せず、すべて労働時間として報告する。
不当な残業代請求をされた際の初期対応と事実調査
まずは請求内容を精査し、安易な支払いは避ける
従業員から残業代を請求された際は、まず請求内容に法的な反論の余地がないかを慎重に検討します。請求額を鵜呑みにして安易に支払うことは避け、主張されている労働時間が事実に基づいているか、計算根拠に誤りはないかを確認することが重要です。 請求を無視すると労働審判などの紛争に発展するリスクがあるため、誠実に対応しつつも、事実関係が明らかになるまでは支払いを留保し、弁護士などの専門家に相談しながら方針を決定するのが賢明です。
会社側が行うべき事実調査と証拠収集の方法
会社には、労働時間を適正に把握する責務があります。請求内容の真偽を確かめるには、客観的な記録に基づいた事実調査が不可欠です。厚生労働省のガイドラインでも、使用者が労働時間を確認する方法は、タイムカードやICカードなどの客観的な記録を基礎とすることが原則とされています。 従業員の自己申告と客観的記録に乖離がある場合は、ビルの入退館記録やPCの使用ログといった証拠を収集・分析し、実態を解明します。これらの証拠は、後の交渉や裁判で会社の主張を裏付ける重要な材料となります。
客観的証拠の具体例(PCログ・入退室記録・メール履歴など)
労働時間の実態を証明するためには、以下のような客観的証拠が有効です。
- PCのログ記録: PCの起動・シャットダウン、ログイン・ログオフの時刻は、業務の開始・終了時刻を推認する有力な証拠です。
- 入退室記録: オフィスのセキュリティカード(ICカード)の履歴は、事業場への滞在時間を客観的に示します。
- メール・チャットの送受信履歴: 業務に関する通信記録は、どの時間帯に業務を行っていたかの裏付けになります。
- 業務システムのアクセスログ: 特定のシステムを利用していた時間帯を把握できます。
- 日報・タコメーター・ETC履歴: 営業職やドライバーなど、社外での活動が多い職種の行動記録を証明します。
従業員本人や関係者へのヒアリング実施上の注意点
事実調査の一環としてヒアリングを行う際は、対象者のプライバシーに配慮しつつ、正確な記録を残すことが重要です。
- 第三者に内容が聞こえないよう、個室などのプライバシーが確保された場所で実施する。
- 後日の「言った・言わない」トラブルを防ぐため、会社側は2名以上で対応し、対象者の同意を得て録音する。
- 高圧的な態度をとらず、あくまで事実確認が目的であることを明確に伝える。
- 本人だけでなく、必要に応じて上司や同僚からも、残業指示の有無や普段の勤務状況について聴取する。
証拠収集と並行して確認すべき「過去の運用実態」
客観的な証拠の収集と並行し、自社の勤怠管理が過去にどのように運用されていたかという実態の確認も不可欠です。就業規則で残業を許可制としていても、実際には申請なしの残業が黙認され、常態化していた場合、会社が「黙示の残業命令」をしていたと判断されるリスクがあります。規則と運用の乖離がないか、厳しくチェックする必要があります。
残業代請求に対する会社側の主な反論ポイント
労働時間に関する反論(実労働時間との乖離)
従業員の主張する時間が、実際の労働時間と乖離している場合は、その時間は労働基準法上の「労働時間」には該当しないと反論できます。労働時間とは「使用者の指揮命令下に置かれている時間」を指します。 タイムカードの打刻時間と実際の業務終了時刻との間に、私的なインターネット閲覧や同僚との雑談、長時間の休憩などが含まれていることを客観的証拠で立証できれば、その時間は指揮命令下になかったとして、残業代の支払い対象から除外できる可能性があります。
管理監督者への該当性を理由とする反論
請求者が労働基準法第41条に定められた「管理監督者」に該当する場合、労働時間・休憩・休日の規定が適用されないため、深夜割増賃金を除き、残業代の支払い義務はないと反論できます。 ただし、「部長」「店長」といった役職名だけで判断されるわけではありません。実態として経営者と一体的な立場にあるかが問われ、以下の要素を総合的に考慮して判断されます。
- 経営方針の決定に関与するなど、重要な職務権限を有しているか。
- 自身の出退勤時刻について、厳格な管理を受けず、裁量が認められているか。
- その地位にふさわしい役職手当など、賃金面で優遇措置が講じられているか。
固定残業代(みなし残業代)制度による反論
固定残業代制度を適正に導入している場合、請求された残業代はすでに支払済みであると反論できることがあります。この主張が認められるには、就業規則や雇用契約書で以下の要件を満たしている必要があります。
- 通常の労働時間の賃金にあたる部分と、固定残業代にあたる部分が明確に区分されていること(明確区分性)。
- 固定残業代が何時間分の時間外労働に対する対価なのかが明示されていること(対価性)。
- 固定残業時間を超える時間外労働が発生した場合、その差額が別途支払われていること。
消滅時効の成立を主張する反論
残業代請求権には消滅時効があり、一定期間が経過した分については支払い義務が消滅します。2020年4月1日の民法改正に伴い、賃金請求権の消滅時効期間は、当面の間3年となっています(改正前は2年)。 給与支払日の翌日から起算して3年が経過した部分については、会社が「時効を援用する」意思表示をすることで、支払いを拒否できます。どの期間の残業代が請求されているかを確認し、時効が成立している部分がないかを検討することが重要です。
不正請求が認められた場合の従業員への対応
不当に得た残業代の返還請求は可能か
従業員の不正行為によって過払いとなった残業代は、不当利得返還請求権に基づき、返還を求めることが可能です。従業員が不正を認識していた(悪意の)場合、受け取った金額に利息を付けて請求できます。ただし、労働基準法の「賃金全額払いの原則」により、本人の同意なく一方的に給与から天引き(相殺)することは原則として違法です。返還を求める際は、別途請求するか、従業員と合意の上で相殺する手続きを踏む必要があります。
懲戒処分の検討と実施上のリスク
カラ残業などの不正請求は、就業規則上の懲戒事由に該当する場合、懲戒処分の対象となります。処分の種類は、けん責や減給といった軽いものから、出勤停止、降格、最も重い懲戒解雇まで様々です。 ただし、懲戒処分、特に解雇は客観的に合理的な理由と社会通念上の相当性が求められます。不正の態様や金額、常習性、本人の反省度合いなどを総合的に考慮し、処分内容を慎重に決定しなければなりません。処分が重すぎると判断された場合、懲戒権の濫用として無効になるリスクがあります。
懲戒処分を科す前に必須となる「弁明の機会」の付与
懲戒処分を有効に行うためには、適正な手続きが不可欠です。特に、処分対象の従業員に対し、「弁明の機会」を与えることは極めて重要です。これは、処分を決定する前に本人の言い分を聴取する手続きであり、これを省略すると、処分が手続き的な不備を理由に無効と判断されるリスクが高まります。就業規則に規定がなくても、必ず実施すべき手続きと認識しておく必要があります。
将来の不当請求を防ぐための勤怠管理体制の構築
残業の許可制・事前申告制の徹底
不要な残業や不正請求を防ぐには、残業を許可制または事前申告制にすることが有効です。この制度を導入し、就業規則に「会社の許可なき残業は労働時間と認めない」と明記することで、従業員は残業の必要性を上司に説明する義務が生じます。管理職が業務の必要性を判断し、不要な残業を抑制することで、カラ残業や居残り残業を防ぎます。制度が形骸化しないよう、管理職がその趣旨を理解し、厳格に運用することが重要です。
客観的な労働時間把握の仕組みを導入する
従業員の自己申告だけに頼った勤怠管理は、不正の温床となりがちです。2019年の法改正により、企業には客観的な方法による労働時間の把握が義務付けられています。タイムカード、ICカード、PCの使用ログなどを活用し、客観的データに基づいて労働時間を管理する体制を構築することが、不正防止の基本となります。勤怠管理システムを導入すれば、法改正に対応できるだけでなく、管理業務の効率化にも繋がります。
就業規則における勤怠ルールと懲戒事由を明確化する
将来のトラブルを予防するため、就業規則に勤怠に関するルールを具体的に定めておくことが不可欠です。
- 始業・終業時刻の定義や打刻の正確なタイミング
- 残業の具体的な申請方法と承認プロセス
- 休憩時間の取得ルール
- 虚偽の勤怠申告が懲戒処分の対象となること、およびその処分の種類
管理職への勤怠マネジメント教育の重要性
どれだけ優れた制度を導入しても、現場の管理職が正しく運用できなければ意味がありません。管理職が部下の無断残業を黙認していれば、それが「黙示の残業命令」と見なされるリスクがあります。管理職に対し、労働時間に関する法知識や、部下の業務量を適切に把握し、効率的な業務遂行を指導するマネジメント教育を定期的に実施することが、組織全体の勤怠管理意識を高め、不正請求の防止に繋がります。
不当な残業代請求に関するよくある質問
退職した元従業員から残業代を請求された場合も対応は同じですか?
はい、退職者からの請求であっても基本的な対応は同じです。まずは請求内容を精査し、在職中のタイムカードなどの客観的記録と照らし合わせて事実確認を行います。時効(原則3年)が完成していない限り、支払い義務は残ります。不当な請求であれば毅然と反論し、正当な未払い分があれば支払う必要があります。退職後は交渉が難航しやすいため、在職中から勤怠記録を正確に保存しておくことが重要です。
残業代請求を無視するとどのようなリスクがありますか?
請求を無視すると、事態は悪化する一方です。以下のような重大なリスクが生じます。
- 労働基準監督署の調査: 労基署に通報され、立入調査や是正勧告を受ける可能性があります。
- 訴訟への発展: 労働審判や裁判に移行し、企業の対応の悪質性が問われることがあります。
- 遅延損害金・付加金の発生: 本来の未払い残業代に加え、高率の遅延損害金や、未払い額と同額の「付加金」の支払いを命じられるリスクがあります。
- レピュテーションの低下: 法令違反企業として企業名が公表されるなど、社会的信用を大きく損なう恐れがあります。
従業員から勤怠記録の開示を求められた場合、応じる義務はありますか?
労働基準法に開示を直接義務付ける規定はありませんが、会社には賃金台帳やタイムカードなどの労働関係書類を一定期間保存する義務があります。裁判などに発展した場合、裁判所から文書提出命令が出され、最終的には開示せざるを得なくなる可能性が高いです。開示を拒否すると、従業員の主張する労働時間が事実として認定されるなど、会社に不利な判断が下されるリスクがあります。紛争の無用な激化を避けるためにも、誠実に対応し、開示に応じることが望ましいでしょう。
まとめ:不当な残業代請求には客観的証拠に基づき毅然と対応する
従業員からの不当な残業代請求に直面した際は、まずPCログや入退室記録などの客観的証拠に基づき、請求内容の事実関係を冷静に調査することが全ての起点となります。その上で、労働時間の実態との乖離や管理監督者への該当性、消滅時効の成否といった法的な観点から、支払うべきでない部分については毅然と反論することが重要です。不正が明らかになった場合は懲戒処分も検討しますが、弁明の機会を与えるなど、手続きの適正性を欠けば処分自体が無効となるリスクがあるため慎重な判断が求められます。最も重要なのは、残業の許可制の徹底や客観的な勤怠管理システムの導入といった将来の予防策であり、不正が発生しにくい労務管理体制を構築することが、企業を不要な紛争から守る最善の策となります。個別の事案で対応に迷う場合は、速やかに弁護士などの専門家に相談し、法的なリスクを最小限に抑えながら解決を図りましょう。

